フォローする(retweetする)というリーダーシップ
ゼミの卒業生のK山さんが教えてくれたYouTubeの動画が非常に面白かった(最初の3分ほど)。twitter上で学生諸君や同僚の教員からすぐ反応があった。そのくらいインパクトがある。
最初に踊り始めたnutsをleaderに変えたのは、二番目に踊り始めた人である。最初の人は少し頭が変で周囲を気にしないで(空気を読めず)踊り始めただけなので、そのままなら一人で踊り続けるだけなのだが、二番目の人は「これは面白そうだぞ」と自分でも踊ってみて、面白いと分かると仲間を手招きして集める。集められるのは(最初の人にはなかった)周囲への働きかけの(普通の)スキルと(ちょっとの)勇気があるからだ。対称的に、最初の人は周囲への積極的な働きかけのスキルはないし、自分のやっていること(最初に一人で踊り始めること)は、普通の人には勇気が要ることなのだという想像がつかないので、勇気を出したという自覚もない。しかしあの場で踊ると気持ちいいということは真っ先に分かって誰よりも先にたった一人で実行しただけなのである。
教訓として、「誰でもリーダーになれる」というのは、誰でも最初に踊り出す人になれるという意味だとしたら普通の人には荷が重すぎてやや実効性を欠くが、二番目の人になるのもそれなりに勇気の要ることであり、この踊りが皆にとっても楽しそうだということを見抜き、自分でもやってみてから皆を巻き込んで、大勢で踊るようになるに至るには不可欠の役割を果たした。つまり二番目の人も立派にリーダーシップを発揮しているのだ。実は一番目の人はリーダーシップを発揮しているという自覚すらない。(だからこそなのだが)一番目の人は二番目の人がフォローしてきたとき(教祖様として振る舞うのではなく)対等に扱った。
ここまでは動画の中でプレゼンしている人の言いたいであろうことをふくらませただけだが、さらに言えば、日本では周囲からの同化圧力が大変強いから、ちょっとの勇気を発揮して周囲を巻き込む二番目の人が大勢居ないとイノベーションが始まらない。一番目の人のような、ちょっと変わったことを一人で始めちゃう人は、nutsでもgeekでもnerdでもいいが、ある一定割合居る。それを広めたり組織化したりするには二番目の人が社会のあちこちにいなくてはならない。不足しているのはむしろこういう人たちだし、また二番目の人たちのスキルは学校でも開発可能である(school of 未来図の高橋俊之さんがチラッとtweetしていたのもこのことかな)。BLPでめざしているリーダーシップは実はここなのだというふうに授業で使ってみようかと考え始めた。リーダーシップ開発と言うとすぐエリート主義だとか生意気だとか「批判」する人が大学教員の中にもいまだに多いのでそれへの自然な反論にもなるかもしれない。
もう一つ。二番目の人は一番目の人をある意味で「支援」している。一番目の人はあのままずっと一人で踊っていても全然苦痛ではなさそうなので、特に支援は必要なかったのかもしれないが、この踊りを広めるという目的に照らせば不可欠の支援であった(二番目の人が踊り始めると一番目の人が嫌がってやめてしまうといったことが起きるならさらに高度の支援技術が必要になる)。二番目の人を育てるということは、周囲の人をいつでも支援する構えがある人を育てるということである。これは「サーバント・リーダーシップ」と実は同じことだと思うが、実はサーバント・リーダーシップよりもわかりやすいのではないか(「奉仕」は「支配」に対置するために使ったのだろうと思うが、やはり意味が強すぎで、「支援」のほうが誤解は少なくて済む)。
さらにもう一つ。個性重視教育やゆとり教育は、実は一番目の人を教育によって生み出そうという意図をもって始められたのかもしれない。でも一番目の人はどういう社会にも一定割合は居るものであり、また教育によっては生まれにくいものなのかもしれない。だとすると二番目の人つまり潜在的支援者を育てていくほうが、道は遠いようでいて実は効果的なイノベーション促進策なのではないだろうか。
最後におまけ。一番目の人は二番目の人がフォローしてきたとき(教祖様として振る舞うのではなく)対等に扱った。この動画での一番目の人はリーダーとしての自覚がないのでそうしただけと思えるが、教祖様として、あるいは先駆者様として威張って応対していればあの後の展開はなかったかもしれない。実はこれもリーダーの心得として強調されることが多い点だが、これもリーダーは「支援される構え」がなくてはいけない、というふうにも翻訳できる。
支援とリーダーシップの関係、それから踊りという比喩については近日中にまた書きたい。