Chalk and talk
先日久しぶりに黒板を使って講義する機会があった。今年の春から、あるいはもっと前から、大教室の講義ではPowerPointやKeynoteを使ったスライドによる講義が中心で、他方少人数授業では学生の発表が中心だったので、自分で黒板を使うのは結構久しぶりだった。黒板のスペースの上から後付けのスクリーンが降りてくるような急ごしらえの設備の場合、黒板を使おうとするとスライドを映すスクリーンを上げねばならず、しかも黒板を使うときとスライドを使うときでは教室の照明もいちいち変えねばならない等、スライドと黒板の併用はかなり面倒になるので、大教室ではスライド偏重になっていたのである。
数年前だったか、chalk and talkというのは工夫の無い昔ながらの一方向的講義の代名詞のように言われていた時期があったが、今回遅ればせながら黒板の良さを再認識した。良さは何といってもその柔軟性だ。聞き手の反応を見て進度を変え、内容を補ったり或いは省略したりといったことが自在にできる。特に、その場で急に思いついて補足するような時には便利だ。
もちろん、柔軟性を全く活かさないような板書も「可能」ではある。例えば教師が黒板いっぱいにただひたすら板書し、書き終わると座って、ほとんど説明もされないまま学生がそれを全て筆写するのを待つ。筆写し終わった頃また次の板書に移る、といった伝説的な講義である。これこそchalk and talkの悪い例である。
逆に、スライドを使っていてスライドの良さを活かさないようなプレゼンテーションにもしばしばお目にかかる。スライドの内容を予め印刷して配布してあり、講師がスクリーンの前に居て身振り手振りで「熱演」し、時にスクリーンを指さしたりしているのに、聞き手は全員手元の紙に目を落としていているために何にもならないという形である(スライドに字をたくさん書き過ぎている場合は特にそうなりやすい)。そのうちに講師も諦めて着席してしまい、講師も聴衆も全員が紙に目を落としていて、スクリーンが虚しく画像を映し出しているというほとんど喜劇的な情景も珍しくない。「スライドは滑る」とでも言われそうである。
話しながら板書する講義ではこうはならない。聞き手は顔を上げていて、話し手は声と板書と身振り手振りというさまざまな武器を手にしているからである。話している内容をほぼリアルタイムで画面に映すMind Managerなどのソフトウェアや音声認識ソフトウェアなども出ているが、タイピングする助手が必要だったりソフトウェア購入のための予算が必要だったりで、大学の講義ではあまり現実的ではない。結局、目次と図表だけを書いたスライドを黒板の右か左に(部屋を暗くしないで済むように)高輝度で映写し(スライドの内容は事前または事後配布するとよい)、話の本体はchalk and talkして適宜聞き手にメモしてもらうというコンビネーションあたりが良いのではないか(その意味では黒板にかぶさるタイプのスクリーンは大変困る)。
従って、意外かもしれない結論の一つとして、目次や図表の要らないタイプの講義・講演では、スライドも一切要らないことになって不思議ではないのである。その意味では、最近どこの大学でも行われている授業評価アンケートで「スライドなどの機器を効果的に使用していましたか?」という設問に一律強制的に答えさせるのは、意味のないスライド使用を促し教員の話術を劣化させる副作用を持っているとも言える。
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