空気を読む
学生たちと接していて最近数年間特に感じられることの一つに、「空気を読む」ことの偏重をあげることができる。授業やゼミで意見を求められたときに、周囲の意見分布がどうであるか「空気を読んで」すばやく同調し、そこから大きく外れない(「安全運転する」)ことが嫌われない秘訣であるという処世術が幅をきかせている。周囲と違った意見が許容されるのは、その意見が笑いをさそうものであるという厳しい条件がつく。
従って周囲を巻き込むような提案を行うことは極めてハードルの高い冒険になってしまう。というのは、十二分に「空気を読む」者でなければ何かを提案しても相手にされないどころか、ちょっと変な(と思われる)提案をすると「空気を読めない奴」という烙印を押されかねないからである。この烙印はいまの学生同士ではほぼ致命的な断罪であるらしい。
「空気」と言えば、故・山本七平氏も『空気の研究』を書いていた。山本氏によれば、空気に支配されることは近代の日本人の弱点であって、例えば(山本氏の直接知る範囲では)戦前はまだ「いやしくも男子たるものはその場の空気に支配されるのは恥であるという伝統があったのがどんどん無くなっていった。無謀な戦争・無謀な作戦などもこのために行われた例が多いというのである。「いやしくも男たるもの」は、今なら「いやしくも人ならば」に、あるいは「いやしくもリーダーを志すものであるならば」と言い換えたほうがよかろう。
「空気」は米国にももちろんある。PC=politically correctというのは、少し規模が大きいがまさに雰囲気・空気そのもののことである。911事件のあと、アメリカの外交政策を批判する者は即愛国心を疑われたため、アルカイダ掃討のためにまずアフガニスタンに、続いてアルカイダとは関係ないのだが大量破壊兵器があるらしいという口実でイラクに侵攻するというブッシュ大統領の決断にも批判は充分には起きなかった。これはそうした空気に引っ張られてのことだろう。炭疽菌騒動のような今思えば訳の分からないヒステリーのようなものに対しても、当時は正面からの批判は少なかった。公の場で一貫して批判していたのはマイケル・ムーアのような、芸人の才覚と河原乞食の覚悟のある人々のみではないか(学生たちの間で、「空気」から逸脱することが大目に見られるのは笑いを狙った時だけであるというのはこれと一脈通ずるものがある。ただし笑いをとれなかった場合の結末は学生の場合は遥かに気楽である)。想像するにマッカーシー旋風のときも似たような空気に支配されていたのではなかろうか。
「空気」に支配される日本人と「PC」に縛られる米国人の違いは、現代日本人の気にする「空気」が半径3メートル限定のものであっても支配力を持ち、米国人のその半径がいささか大きい、という気団の規模の違いかと思われる(高気圧や低気圧のような空気の塊を気象学では「気団」と総称するようだ)。気団に支配される点は日米共通なのではないか。明治期やそれ以前の日本人には、山本氏の言うようにその場の(半径3メートルの)空気に支配されるようでは「男(人間)がすたる」という恥の観念があったのだとしたら、気団の規模はもっと少なくとも車座や会議室の3メートルや10メートルではいけないという自覚があったということだろう。今の学生にそうした恥や自覚がないことは山本氏の言う通りで、さらに悪いことに学生より年上の大人にも極めて稀になってしまったように見受けられるのである。
| 固定リンク
「01. 教室の内と外」カテゴリの記事
- Zoom as an Equalizer(2020.07.30)
- 魔の11人?(2020.07.22)
- 早稲田大学でのアクションラーニングの歩み(2016年6月-2020年7月)(2020.07.22)
- 双方向ライブ型オンラインのリーダーシップ開発授業開始(2020.05.16)
- またもやPBLの置き場所について(2020.01.19)
「05. Leadership」カテゴリの記事
- note試運転中(2022.02.23)
- 「心理的安全性」より「衝突安全性」がよいのでは?(2021.10.11)
- Zoom as an Equalizer(2020.07.30)
- ILA理事就任(2020.07.23)
- 魔の11人?(2020.07.22)
コメント