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2007年4月の2件の記事

2007年4月29日 (日曜日)

執行型・立法型リーダーシップ

金融についても本を書かなくてはいけないのだが、4月から始まった授業の準備や途中の軌道修正でリーダーシップについて考える機会が多い。Servant leaderというエントリーの末尾で、軍隊のことについて書いた。サーバント・リーダーシップ論のニューシェルが軍隊について繰り返し言及していたからである。彼の言いたかったであろうことの一つは、(命令に従わない場合には銃殺という罰のある)軍隊においてすら、部下に献身的に働いてもらうためには日頃から部下のことを思い、気遣い、奉仕していなければならない、いわんや民間企業ならばなおさらだ、ということである。こうしたサーバント・リーダーシップは、昨日書いたコリンズの「立法型」「執行型」という区別とはどう対応するだろうか。また、「第五水準のリーダーシップ」とはどう繋がるだろうか。
 一方の極として、軍隊は明らかに執行型リーダーシップの重視される組織である。「法律」は上官が定めて、部下はそれを執行するのみだからである。そうした組織でサーバント・リーダーシップが必要なのは、第一に「上官の命令に従って執行する」といっても、執行の質が、部下の士気によって大きく左右されるので、士気を高く維持しておくことが不可欠だからであろう。その士気の維持のために、第二に、上官の命令が上官自身の個人的感情や私利私欲から発しているものではないことを、常に部下に示しておくことが士気向上のために重要だからであろう。さらに第三には、上官のそうした態度・行動は同時に部下がさらに下の部下に接するときの模範にもなるからである。(おそらくこれ以外にも理由がありそうだ。)
 軍隊の場合に、「立法」は常に上官の仕事である。部下に奉仕しておくことが必要なのも、上官から受けた命令を効果的に執行するためにこそである。その趣旨を取り違えて、単に部下によく思われたいだけで部下に迎合する上官は(それもまた、よく思われたいという私心から発した態度である)、いざ命令を出してみると規律不足で、効果的な執行などおぼつかないことに気づくだろう。
 軍隊のような会社、と評される企業のことはときどき耳にする。官庁も、その起源からして執行機関であるから多かれ少なかれ軍隊的にならざるを得ない。しかし上の文章の「上官」を「上司」と読み替えれば、同じことは企業、とくに大企業には相当部分があてはまるのではないか。おそらく世の中の多くの企業や官庁はその組織に多かれ少なかれこうした要素を持っていて、その程度が違ったり、そうした要素が表面に出るタイミングや頻度が違うのではなかろうか。その意味では敢えて「軍隊的」と呼ぶ必要も必ずしもないだろう。軍隊におけるリーダーシップは執行型の極端にあり、そこではサーバント・リーダーシップは執行を効果的に行うための布石である。
 さて、逆の極端の立法型リーダーシップによって動く組織である。世の中の多くの組織が、上記の執行型の極(軍隊)と、この立法型の極との間のどこかに属すると考えられる。立法型の極端な場合として、(思い切って)大学をとり上げてみよう。もちろん、大学の中にも執行型リーダーシップの要素が強いところはあるだろう。理事会や学長が人事権を始め強い権限を持っている一部の私立大学がこれに当たるようである。反対に、例えば、私の以前いた東京都立大学や今の勤務先の立教大学はそうではない。万事話し合いで決める「民主的」な組織である。(もっとも、石原慎太郎氏が都知事になり都立大を「改革」することを思いついてから、つまり今世紀に入ってからの東京都立大学は急速にそうではなくなっていった。)
 こうした大学では、学長(総長)や学部長は教職員の選挙で選ばれるものの、国会や地方議会の議員と違って有権者(教職員)からほとんどフリーハンドを与えられない。あらゆる議事の要所要所で学部教授会の同意をとりつけることが必要であって、学長や学部長は教員の人事権はもちろんのこと、(教授会決定なしには)教員に対して命令する権利すら持っていない。従って、学部長であれ学長であれ、何かを決定し進めるためには、一件一件について学部教授会を説得する以外に方法はない。立法府は教授会である。教授会に対しては学部長は他の教員に比べれば優先する提案権を持っているが決定権は持ってはいない。学部長のリーダーシップは立法府への提案をどのように行うかにあるのでコリンズの言う立法型リーダーシップである。
 こうした組織においてサーバント・リーダーシップが重要であることはほとんど自明であろう。軍隊において上官のサーバント・リーダーシップは執行を効果的に行うための布石であったが、大学においては効果的どころか、それなしには教授会にそっぽを向かれて全く前へ進めないであろう。コリンズもアメリカのある企業家の経験を紹介している。「大学の学部長に転身し、みずからのビジョンの実現に向けて教授会を引っ張っていこうとした。だが、経営手法を駆使するほど、教員はさまざまな理由を見つけて教授会を欠席するようになった。こうなったとき学部長に打つ手はあるのだろうか」「こうして『人生で最悪の経験』をなめた後、学部長はビジネスの世界に戻っていった。この学部長が手遅れになるまで気付かなかった点がある。ある学長が述べたように、終身教員は『ノーという理由を無数に持っている』のである。」(『ビジョナリーカンパニー特別篇』p.30-31)
 以上の両極を比較してみると、サーバントリーダーシップはどちらについても有効であるが、特に社会セクター(ここでは大学)において不可欠である。軍隊のリーダーは明白なappointed leaderで、大学のリーダーはappointedないしemergentであるから、サーバントリーダーシップが有効であることはリーダーの発生の仕方とは直接に関係がないが、emergent leaderであればサーバントであることを証明しなくてはいけない頻度が高いとは言えるかもしれない。しかも、サーバントであることが強く要請される社会セクターのリーダーは同時に(執行型ではなく)立法型リーダーであるから、サーバントであるだけではなく立法のビジョンを自前で用意しなくてはならない。これがコリンズの言う「第五水準」の意味でもあるのだろう。

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2007年4月28日 (土曜日)

社会セクターでのリーダーシップ

少し前だがコリンズの『ビジョナリーカンパニー特別篇』(原著2005年、邦訳2006年、日経BP社)を読んだ。翻訳で90ページ足らず、短いが非常に面白い本だ。読書ノートを兼ねて書いておこう。
 前著『ビジョナリーカンパニー2:飛躍の法則』では良好(good)な企業が偉大(great)な企業になるにはどこが変わればよいかを論じていた。今度の『特別篇』では企業ではなく学校・病院・警察・文化団体・NPOなどの「社会セクター」が「良好」から「偉大」になるためにはどうしたらいいかを扱っている。
 こうした問いに対しては、民営化すればいい、あるいは少なくとも民間企業のやり方を取り入れればいい、というのが現在の日本で、そしてコリンズの米国で、すぐに予想される答である。しかし著者はこの考え方に真っ向から反対する。
 曰く、「企業のほとんどは・・・凡庸と良好の間のどこかに位置している。偉大な企業はほとんどない。・・・だったら凡庸な企業の慣行を社会セクターに取り入れるべきだと考える必要があるのだろうか」
 「凡庸な企業がしっかりした規律をもっていることはめったにない。規律ある人材が規律ある考えによって規律ある行動をとる文化が欠けている。そういう文化があるのは、本当に偉大な企業だ。規律の文化は企業経営の原則ではない。偉大な組織の原則だ。」
 「決定的な違いは企業セクターと社会セクターの間にあるのではない。偉大な組織と良好な組織の間にあるのだ。」
 実のところ、大学にいる者としてはこれには驚きつつも救われる気がする。というのは、日頃から日本の大学はダメな組織の典型であると民間企業の方々に言われ続けているからである。
 それではこの本の対象である社会セクターの場合に「偉大な組織」や「規律ある人材」は企業の場合とどのように異なってくるであろうか。コリンズはさまざまな点を指摘しているが、そのなかで注目したいのは、まず第一に、社会セクターの場合にアウトプットを数量化しにくいことが多く「偉大さ」を計測することが難しいが、数量化するのが難しいのならば「法廷弁護士が証拠を検討するときのように考え」ればよい(p.23)。第二に、社会セクターでは組織運営の仕組みが複雑で、権限が分散しているのが通常であること。従って「執行型のリーダーシップ」は発揮しようがない。従って社会セクターの指導者は企業経営者と比較して一般に決断力に乏しいと見えるのは外見だけの話で、権限が分散しているために「立法型のリーダーシップ」をとらざるを得ないというのである。立法型というのは、(一人で決断を下せるような権限を与えられていないため)説得や政治力、共通の利害や関心などを頼りに組織が適切な決定を下すような条件を調えていくようなリーダーシップである。(この「立法型」のリーダーシップが、自然発生的なリーダーシップemergent leadershipとどのように関係するのか、これも面白そうな論点である。)
 さて、さらに興味深いのは次の点である。すなわち、立法型のリーダーシップが機能するためには、民間企業の場合にも増して第五水準のリーダーシップであることが要求される点である。第五水準のリーダーシップとは、コリンズの前著でも強調されたもので、「野心が何よりも目標・活動・使命・仕事に向けられていて、自分個人には向けられていないこと、野心を実現するために必要であれば、何であれすべて行う」ようなリーダーシップである。なぜ社会的セクターの場合それがとりわけ大切かというと、「指導者が個人の野心を追求しているときに、直接に権力を行使する力を持たない指導者の決定に従う人がいるだろうか?」というわけである。リーダーシップの行使は力の行使とは違うのであり、「拳銃を頭に突きつければ、自発的にとるはずのない行動を相手にとらせることもできるだろう。だが、このときリーダーシップを発揮しているわけではない」のである。
 社会セクターが企業セクターに比べて非能率とみなされ、企業に見習えと言われがちな点は日米共通らしい。しかし社会セクターで発揮されるべきリーダーシップこそが民間企業でも模範例となるべき第五水準のリーダーシップであるというのは面白い。コリンズは「社会セクターの方が企業セクターよりも、リーダーシップの模範例が多いのではないかと思える」「今後は偉大な指導者が社会セクターからあらわれることになり、いま考えられているのとは逆になるだろう」とまで言っている。
 とうにお気付きのように、以上の「社会セクター」は「大学」を含んでいる。企業セクターを必ずしも見習う必要はないというのは結構だが、何だかえらいことになってしまいそうである。

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