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2006年10月 6日 (金曜日)

「自由研究」症候群

夏休みが終わって学生たちがキャンパスに戻ってきました。通年講義で夏休みに宿題を課すと、明らかに最後の一日か二日ででっちあげたと思われるものに遭遇し、小中学校の夏休みの宿題を思い出します。ついでに思い出すのは、小中学校の「自由研究」について数年前に見聞きしてきたこととして、児童の保護者が手伝うことが常態化して、自由研究の成果物展示会は、実質的に保護者たちの競争の場となっているらしいことです。

保護者が成果を問われているわけではないのに子供と一体になってしまって、肝腎の「子供を育てる」視点がどこかに行ってしまっているのです。担任の先生も「親子で一緒に作業することにも意味があるのです」と諦め顔。

しかし、実は大学生についても、似た現象は起きます。最近立て続けに学内外で学生の起業・事業プロジェクトの審査を経験したのですが、プロジェクトの間で賞をめざして競争が行われる場合、学生に勝たせたいと思う余り指導教員がいわば過剰に指導しがちなため、学生の自主的な研究というよりも、その教員の着想を教員の指示のもとに学生が手足となってまとめたようなプロジェクトになってしまうことが多々あるようなのです。「そういうことでは学生のためにならないではないか」という批判に対しては「いや、学生に自信をつけさせるために意味があるのだ」という「反論」が用意されています。

酷い場合は、教員の過去の研究や授業の内容そのままを学生が発表していることすらあります(さすがにその場合には審査員も分かって、入賞しにくいようですが)。副作用としてやや深刻なのは、全く学生の独自の着想で進めたプロジェクトであっても、出来が良いばかりに「あれは教員が入れ知恵したのではないか」と疑念を持たれて票を獲得できないようなケースも発生します。

そう言えば、実はプロの学者の集まる学会でも、同じようなことがあります。例えば指導教員がその弟子の大学院生にテーマを与えて、それに沿って研究を進め論文にまとめる過程で逐一指導し、成果を大学院生が学会で発表する場合です。これは珍しくないことでしょう。学会はその大学院生をどのように評価するでしょうか。聴衆は院生を新人として将来性で評価しようとするでしょう。つまり研究の本体を曲がりなりにも自分でこなしているかを見ようとするはずです。それに最も適した手段が質疑応答です。少なくとも内容をしっかり理解していないと厳しい質問には答えられませんし、分からない問題を誤魔化そうとしたりすれば、研究者としての将来に疑問符がつきかねません。先達から見れば、時間としては長くなくても質疑応答から読み取れることは非常に多いものです。

小中学校の夏休みの宿題も、大学生の起業・事業コンテストも、しっかり質疑応答の時間をとることで、親や教師の代理競争という「自由研究症候群」を免れうるのではないかと思えます。

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