新しい本を出しました

大学の教員同士、とくに常勤の教員同士の関係は、互いに命令する権限がないという意味では上下関係にない。複数の教員のチームで新しいことを始めようとすると、誰にも権限がないのでとってもエマージェントなリーダーシップになる。教授会で誰それと誰それ君やってくれたまえと決まったところで、その代表者たる誰それ君は、代表といってもちっとも権限はなく、それなのに責任をもって教授会に経過と結果を報告する義務だけが発生するのであるから、とってもサーバントなリーダーシップを発揮して実行したり、「影響力の法則」を地で行く交換の秘術をつくして皆さんのご協力をお願いせざるをえない。
民間企業から大学教員に転じた方々の多くは、教員のこうした関係を見て大抵驚愕する。民間企業の方式が正しいのであると信じて疑わない人もいて悲憤慷慨されるのだが、こうした事情はアメリカの大学でも大差ないことはコリンズも書いている。その意味では民間企業よりも遙かに前から大変フラットな組織なのである。コリンズは勢い余ってか、大学やNPOや社会セクターにおけるリーダーシップこそ権限のないリーダーシップであり、もっとも現代的なリーダーシップであるとまで言う。
一つ前のエントリーに書いたのを「下からのリーダーシップ」と呼ぶなら、これは横からのリーダーシップとでも言えようか。
『金融ジャーナル』という業界誌から執筆依頼があった。同誌には数年にいっぺん、こちらが忘れた頃に依頼をいただいて、そのとき考えていることを書かせてもらってきた。この頃金融よりもリーダーシップのほうばかり読んだり書いたりしているので、依頼メールをいただいたときにも、件名と差出人を見て、急ぎならばこれはお断りしたほうがいいかなと思ったのだが、メールを開けてみると組織活性化の特集らしいのでリーダーシップの話でよい由。そこで概略以下のようなことを書こうと思っている。「空気を読む」については前にもここに書いたし、教室ではいつも話していることではある。
「組織の活性化」に効くのは「下位の者もリーダーシップを発揮しやすい」ことではないか。然るに若い人たちの間では同位の者の間であってすらリーダーシップをとることを恐れる傾向があるように思えてしかたない。若い人の間で「あいつは空気が読めない」という言い方が流行するようになってから、はや5年は経っている。その後いっこうに衰える気配はなく、「KY」という略語までできるほど定着しているようだ。(ついでに、コミュニケーション能力という言葉すら、もともとはもちろん違うが、若者の間では「空気を読む能力」と似た意味で使われているような気がする。聞き違いだろうか?)「空気を読む」こと自体を最重視すると、空気を壊したり変えたりすることに慎重になりやすい。空気を変えたほうがいいのだと自分で確信できる場合には転換を提案できるのだが、確信を持てないときには提案しづらくなるからである。特に、空気を読むことに失敗した者が厳しく罰せられるような組織やグループでは、空気を変えるような提案はとてもリスクが高い。安全に空気を変えられるのは「笑いをとる」場合ぐらいになる。笑いをとるのに失敗した(「すべった」)場合でも、空気を読むのに失敗した場合ほどには罰せられない。笑いがふさわしくない状況もあるだろうが、それを読むのも「空気を読む」うちであるから、やはり最優先されているのは「空気を読む」ことなのである。
これはリーダーシップが不足している一つの典型的な状況である。チームや組織としての成果への指向をリーダーシップのP要素(performance)と呼ぼう。これに対して人間関係の維持への指向をリーダーシップのM要素(maintenance)と呼ぶ。このPとMがリーダーシップの二大要素である。PとMは一人の人が兼備している必要はなく、分担されていて構わない。その要素が充分にある場合は大文字で、不足している場合は小文字で表すとすると、PMは両要素とも充分にある状態で成果もあがるし人間関係も良好である。pmは両方とも不足している場合であるから成果もあがらないし人間関係も悪い。空気を読み合うばかりのチームは pMすなわち成果よりも人間関係が重視されている状態に相当する。pMなチームを作ってしまうようなメンバーは上位の者に対してリーダーシップを発揮することなど思いも寄らないだろう。
下位の者が上位の者や顧客に提案できるようにするには、上位の者にもそれを歓迎する(下克上である等ととらえない)姿勢が必要であることはもちろんだが、下位の者にも入社当初から習慣化することが大切である。幹部候補生になってからの「リーダー研修」では手遅れではなかろうか。
リーダーシップは、組織やグループに属しながらそこに貢献する形で発揮されることもあるが、もう一つの重要な現れ方がアントレプレナーシップだと考えられる。そこで、今年のBL3(BLPの三学期目、二年生後半)では起業家の体験談を聞く時間を三週ほど設けてみた。きょう(もう昨日だ)はイタリア料理研究家・イタリア料理関係事業仕掛け人(?)の沈 唱瑛さんをお招きして、約100人の学生に講演していただいた。
沈さんは「大学受験では先に受かったほうに大学に何となく決めてしまったし」「料理と並んでゲームも好きだったからあまり考えずゲームの会社に就職してしまった」というふうに、「キャリアをデザインする」という発想など全くなく大学を卒業し就職する。しかし沈さんは「ゲーム機会社でお荷物扱いされていた部門(お化け屋敷)をローテク一本槍で再建してしまう」「飛び込み営業で人に話を聞いてもらう」といった経験を積みながら、もともと好きだったイタリアとイタリア料理の方向へじりじりと近づいていく。ここで「好き」を貫き、しかもイタリア料理の調理そのものではなく、「イタリア料理店の経営のためには必要なことだがシェフたちにはできないこと」に特化するのである。就活や就職を前にした学生、とくに女子学生にはとても励ましになると思われる。(同時に私にそんなことができるかしらと不安になる人も出てくるかもしれないのだが)
ゲーム機の会社を辞められてからの沈さんの道はいわば梅田望夫氏の言う「けものみち」に相当するのかもしれない。「えっ私の来た道はけものの道?」と驚かれると困るのだが、「けもの」に主眼があるのではなく、重点は前人未踏ということである。梅田氏の『ウェブ時代をゆく』の「けものみち」論は、インターネットによってますます高速化する道路と「その先の大渋滞」を対比して、渋滞を抜けてさらに高くそびえる道を行くべく同じ方向で研鑽を続けるのではなく、高速道路を降りて、人の足跡の無い道を敢えて選んで行くのもまた一つの方法である、という主張である。二十代から三十代の女性にこの「けものみち」論が支持されているらしいのは、おそらくインターネットの話のせいではないだろう。ネットとは関係なく、結婚や出産や予定外の転職で一度高速道路を降りたら、復帰するには「けものみち」を行くしかないのだ、という文脈なのではないか。これについてはいずれまた書いてみたい。
原題はInfluence without authority、つまり権限がないのに影響を与えることといった意味である。リーダーシップ論や組織論でもよく言われるように、縦一本の命令系統で全ての情報を下から収集し上から命令を下すという昔の軍隊風(著者の言うように軍隊ですら今は違うようだ)の組織運営では全く間に合わないほど現代の企業環境の変化は激しい。そうした環境の中で成果を得ようとすれば、必ずしも権限に基づいていないリーダーシップや組織横断的なプロジェクトチームによる主導が常に必要になる。ここまでであれば多くの論者によって主張されていることである。むしろ本書の白眉はそうした自発的・内発的なリーダーシップ emergent leadershipを発揮するに当たって必要になる対人関係のスキルを「交換」の観点から整理し、さらにさまざまなケースについて懇切丁寧に例解したことにある。組織の中で働いた経験のある方ならば誰でも本書の中でいくつか思い当たるケースに行き当たると言えるほど例が豊富である。アルバイトの積極的な提案が大切にされるような職場にもあてはまるので、アルバイト経験の豊富な学生にも(全てとは言わないが)かなり理解できるだろう。社会人ならもちろんである。
そもそも「交換」は、同じものに対する評価が人によって違うことから発生するというのが経済学の基本中の基本だが、経済学の想定とは違って、われわれは自分が持っていて相手に評価されるかもしれない財や資産(著者はカレンシーと呼ぶ)に本人が気づいていないことがしばしばある。そこで著者は、何がカレンシーでありうるかについて包括的なリストを読者に提示し、そのリストをいつも意識していることが必要だという。応用篇として、上司に影響を与える・厄介な部下を動かすといった章が最後にあり、そのテーマ自体は類書にもよく見られるものであるが、本書はそれも交換という視点に徹して整理しているので分かりやすい。
組織の中で働く人たちが皆この本を読んで種々の交換を始める状況を想像すると、無意味な衝突が減り組織の円滑さが増すさまが浮かぶ。しかしそもそも組織の中で人々が何のために交換をすべきなのかという点が本書の中であまり強調されていないことにも気づく。著者は暗黙に前提していることと思われるのだが、それは(経済学での交換における消費者のような個人的満足ではなく)チームや組織としての「成果」のためである。つまり成果を上げねばならない点での合意はできていることが前提されている。従って、リーダーシップ論の言葉で表現すると、この本はP (performance,成果)とM(maintenance,人間関係)というリーダーシップの2要素のうちのMの、合理的な実践に焦点を合わせたものであるとも言えるかもしれない。著者はリーダーシップという手垢のついた言葉を(上司や部下との関係を扱った最後の方の章に至るまでは)慎重に避けているが、M要素を合理的かつ実践的に説いているという意味では本書はリーダーシップ開発の格好の教材にもなるだろう。この本をもっと早く読みたかったと思う読者が多数出ることが予感される。高嶋成豪・高嶋薫両氏による翻訳はこなれていて非常に読みやすい。
アラン・コーエン、デビッド・ブラッドフォード著『影響力の法則』税務経理協会
先日久しぶりに黒板を使って講義する機会があった。今年の春から、あるいはもっと前から、大教室の講義ではPowerPointやKeynoteを使ったスライドによる講義が中心で、他方少人数授業では学生の発表が中心だったので、自分で黒板を使うのは結構久しぶりだった。黒板のスペースの上から後付けのスクリーンが降りてくるような急ごしらえの設備の場合、黒板を使おうとするとスライドを映すスクリーンを上げねばならず、しかも黒板を使うときとスライドを使うときでは教室の照明もいちいち変えねばならない等、スライドと黒板の併用はかなり面倒になるので、大教室ではスライド偏重になっていたのである。
数年前だったか、chalk and talkというのは工夫の無い昔ながらの一方向的講義の代名詞のように言われていた時期があったが、今回遅ればせながら黒板の良さを再認識した。良さは何といってもその柔軟性だ。聞き手の反応を見て進度を変え、内容を補ったり或いは省略したりといったことが自在にできる。特に、その場で急に思いついて補足するような時には便利だ。
もちろん、柔軟性を全く活かさないような板書も「可能」ではある。例えば教師が黒板いっぱいにただひたすら板書し、書き終わると座って、ほとんど説明もされないまま学生がそれを全て筆写するのを待つ。筆写し終わった頃また次の板書に移る、といった伝説的な講義である。これこそchalk and talkの悪い例である。
逆に、スライドを使っていてスライドの良さを活かさないようなプレゼンテーションにもしばしばお目にかかる。スライドの内容を予め印刷して配布してあり、講師がスクリーンの前に居て身振り手振りで「熱演」し、時にスクリーンを指さしたりしているのに、聞き手は全員手元の紙に目を落としていているために何にもならないという形である(スライドに字をたくさん書き過ぎている場合は特にそうなりやすい)。そのうちに講師も諦めて着席してしまい、講師も聴衆も全員が紙に目を落としていて、スクリーンが虚しく画像を映し出しているというほとんど喜劇的な情景も珍しくない。「スライドは滑る」とでも言われそうである。
話しながら板書する講義ではこうはならない。聞き手は顔を上げていて、話し手は声と板書と身振り手振りというさまざまな武器を手にしているからである。話している内容をほぼリアルタイムで画面に映すMind Managerなどのソフトウェアや音声認識ソフトウェアなども出ているが、タイピングする助手が必要だったりソフトウェア購入のための予算が必要だったりで、大学の講義ではあまり現実的ではない。結局、目次と図表だけを書いたスライドを黒板の右か左に(部屋を暗くしないで済むように)高輝度で映写し(スライドの内容は事前または事後配布するとよい)、話の本体はchalk and talkして適宜聞き手にメモしてもらうというコンビネーションあたりが良いのではないか(その意味では黒板にかぶさるタイプのスクリーンは大変困る)。
従って、意外かもしれない結論の一つとして、目次や図表の要らないタイプの講義・講演では、スライドも一切要らないことになって不思議ではないのである。その意味では、最近どこの大学でも行われている授業評価アンケートで「スライドなどの機器を効果的に使用していましたか?」という設問に一律強制的に答えさせるのは、意味のないスライド使用を促し教員の話術を劣化させる副作用を持っているとも言える。

先月からイーモバイルと契約してUSB無線モデムを買い、MacBookを持ち歩いている。週に一度か二度は数時間LANのないところでパソコンを使いたいことがあるのでこれは大変重宝である。類似サービスでいままで独壇場だったPHSは速度が遅い(それにMacへの対応にも熱心でない)から見送っていたのだが、イーモバイルは速いしMacも大丈夫だし(このまま行けば多分)安いし良いところずくめである。
これでMacを連れ出す機会が増えたので、今度は10インチかせめて12インチの(PowerBookG4/12“のサイズと同等かそれ以下の)MacBook Miniは出ないものかと希望し始めたときに、iPod Touchが出た。無線LANでネットに繋がるようだ。だったらいっそのことイーモバイルでネットに繋がる仕様にしてくれたらいいのに。つまり電話機能は要らないからネットにだけ繋がればいい。どうしても電話機能が欲しいならば、OSXなんだしSkypeでも繋げばいいではないか。iPhoneでできることのうち、電話だけは要らない、という人は日本では案外少なくないのでは? 電話機能が障害になって日本発売が遅れそうなのであればなおさらだと思うのだが。
もっとも通信するのに外付けでモデムというのじゃあアップル的には(というかジョブズ的には)許せないでしょうね。となると内蔵だけど、それなら電話機能入れるのと同じ手間?
永らくご無沙汰。時間的に忙しくても、忙しさの性質によってブログは書けることはあるのだが、この夏は別の種類の忙しさだった。それでブログにご無沙汰してしまうとは、まだまだ修業が足りない。
最近ハイフェッツ教授の伝説的とも言えるリーダーシップ開発の授業についてシャロン・ダロッツ=パークスが長期取材して書いたという『リーダーシップは教えられる』(ランダムハウス講談社)を読んだ。リーダーシップ開発に限らず、名人と言われる人の授業風景を取材して書いた本は少ないようだ。読み始めてすぐ目につく「ダンスフロアとバルコニー」という卓抜な比喩にまず感心。リーダーシップについてグループやクラスで議論するのだが、議論(フロアでのダンス)の最中にふとバルコニーに上がってフロアを俯瞰し、ダンスしている皆の状態を把握することが大切で、フロアとバルコニーの往復がひょいとできなくてはよいリーダーシップは発揮できないという。グループの状態を把握していなくてはいけないという手垢のついた説教よりもすっきりと印象的である。
受講生たち自身が過去にリーダーシップをとろうとして失敗した経験談をクラスで発表させてそれを皆で分析するという極めてインタラクティブな方法にも驚く。驚いたので早速秋からの経営学部一期生(現2年生)のBLP(BL3)で使ってみようと考えている。そんな急に思いついたような授業内容でいいのか? いいのである(と思う)。経営学部の一期生たちは経営学部ができた直後に入学してきたというか、彼らの入学とともに経営学部が始まったので、教員たちが全て初めてのことをやろうとしていつもドタバタしている状態にもはや慣れている。寛容な諸君である。それだけではない。教員たちが右往左往している状態を見るに見かねて、学生諸君が手をさしのべて改善提案や労働を提供すると教員たちが遠慮なくそれをいただき、そうすると急速にドタバタが終息するということもしばしば経験している。
実はこれこそ経営学部がめざしているリーダーシップの一つの典型である。つまり、任命も依頼もされてもいないのに、自発的(emergent)に提案・説得し私心なく自ら動き全体のパフォーマンス(成果)を向上させるリーダーシップなのである。教員は、学生諸君に自発的リーダーシップを発揮してもらうために深慮遠謀し敢えて教員としての権力や権威を発揮しないでいるのだ。と言いたいところだけれども実のところそれほど余裕があるわけではない。ただ、先行例の非常に少ないことばかりを行っているので、学生諸君のリーダーシップをうまく引き出せず、教員にも窮地を脱出する妙案がない場合には、BLPで言えば250人からの学生とともに立ち往生してしまうという恐れがある。いくら寛容な一期生が相手とは言え、これは教師としては悪夢である。そうなるリスクを取っているとは言える。
その意味でBLP教員の方にこそBLP運営だけに限ってみても失敗談や裏話(ここには書けないような、「あのとき間一髪だった」「運がよかった」という類いのエピソード)には事欠かない。しかしまずは受講生諸君の失敗談を使いたい。学生同士の失敗談のほうが共感しやすいからである。失敗談ではなく経験談やリーダーシップに関する個人個人の持論を披露しあうというクラス運営方法であれば今や一般的で、リーダーシップ開発(教育)だけではなく、純粋なリーダーシップ研究においても、実績のあるリーダーがほとんど必ず持っているリーダーシップ持論をインタビューで聞き出して分析するというのは定番の研究課題になっているようだ。しかし失敗例に限るというのは一般的ではないようだ。実行するための障害になりそうな点の第一は、失敗例を率直に話すにはクラスやグループの同僚とある程度以上の信頼関係がなくてはいけない。第二に、同僚の受けを狙って失敗談を笑い話に仕立てることを防ぐ必要がある。第三に、教師の受けを狙って「最初はバラバラだった仲間が文化祭直前までにほぼまとまりかけたときに、あと一歩のところで失敗しました。あのときこうすればよかった」等という殊勝な反省つきの(面接対策にありそうな)マイナー失敗談にこじんまりまとめてほしくない。そうならないように、失敗談をクラスで分析したら何度か改訂してもらう必要があるだろう。持論ではないと上に書いたが、そう、これは失敗談から持論を作って行く作業であるとも言えるかもしれない。
そして、失敗談のソースとしては過去一年間に受講生が行ってきたプロジェクト型学習の中での失敗が最適ではないか。全国の大学でプロジェクト型学習(project-based learning)は流行の兆しがあるが、プロジェクト型学習のもっとも肝心なところはプロジェクト本体の終了後にようやく始まるということは案外知られていないように見受けられる。リーダーシップ持論の形成や失敗談の共同分析は、プロジェクト終了後の「ふり返り」の柱になるだろう。
久々に電子文具談義。手帳をなくすのが怖いばかりに予定表とto-do listを電子化して二年余り経ちました。電子化してローカルにデータを貯めて機械をなくしては元も子もないので、予定表もto-doもネット上に置いておくのが一番ですね。
まず試したのがアップルのiCal。これはインターフェースはアップルらしく美しいのだけど、家とオフィスのMacを同期するiSync(のち.Mac sync)が(.Macを使っているせいか)不安定で時々更新に失敗することがあります。.Macサービスの遅さ・不安定さはアップル最大の弱点かも(iPhotoからすぐウェブ上にアルバムを作れるiWebもそのせいで台無しになっている印象があります)。
予定表とは別の話に早速脱線ですが、iSyncには家とオフィスのMacで使うブラウザ(Safari)のブックマークを同期する機能があり、これもブックマークが巨大化してくると結構誤動作がありました。ブラウザをSafariではなくFirefoxに替えたら、Firefoxはそれ自体でやはりネットを使って複数マシンのブックマークを同期する機能を持っていたのでそちらに替えました。Safari>iSyncの場合よりも同期してくれる情報が多い(ブラウジングの履歴や開いているウィンドウのアドレスまで同期可能)し動作も確実なのでこれは正解でした。
予定表の話に戻ると、iCalを諦めて次に試したのが37signalsのBackpackとYahoo!です。Backpackの予定表の方が美しいのですが、携帯から読み書きできるYahoo!カレンダーに落ち着きました。Yahoo!カレンダーはウェブ上に予定表を置いて、一つのファイルを複数のパソコンや携帯から読み書きします。ホストがダウンしたら手帳を無くしたのと同じことになりますが、時々パソコンにファイルで書き出しておけば、「向こう一年間の予定を無くした」ってなことはなくなるのでまあいいでしょう。
Yahoo!カレンダーを暫く使っていましたが、携帯からの操作性が良くないし見た目も美しくないので、大画面の携帯に替えてパソコン版を直接読み書きするか、スマートフォンを1台持つかを検討中で、台湾製のスマートフォンをほとんど買いそうになりました。ちょうどそのときGoogleが別のソリューションをくれました。5月末からGoogleカレンダーが携帯にも対応したんです。それ以前は携帯対応と言ってもお知らせメールを携帯に送ってくれるだけでしたが、今度はYahoo!と同じように携帯から読み書きできます。しかも2.9インチとかの大画面でなくても充分使えるインターフェースです。Yahoo!より使いやすいと思います。これでアップルから日本版のiPhoneが出るまで(笑)大画面だけを狙って携帯を買い替える必要はなくなりました。to-doリストはついていないのですが、これもそのうち付くかも。to-do listは携帯用の無料サービスがいくつかあり、僕はcheckpad.jpというのを使っています。
実はメールも暫く前にアップルのMailからGoogleのGmailに替えてしまいました。MailはIMAP4という2,3年前には先進的だった方式に対応していて、既読ポインタや下書きをサーバ上で共有できるので、自宅からとオフィスのメール関係の環境が常に同期している点は優れていました。しかしADSLや光ファイバーや無線LANの普及で常時接続が当たり前になり、メール本文をダウンロードしてパソコン内に貯めておくことの意味が薄れ、逆にセキュリティの観点からはむしろ貯めておかないことの積極的な意味も出てきたので、IMAP4よりもいっそウェブメールの方が良いという流れになったんじゃないでしょうか。他の機能から言っても現時点でGmailは優れものです。4月頃だったか、このgmailも携帯に完全対応して、またまた便利になりました。いまは携帯のブックマークは、GoogleカレンダーとGoogleメールとcheckpad.jpが入っています。
Yahoo!とGoogleがネット関係の二大巨人なのだそうですが、僕の使用状況ではどんどんgoogleがシェアを高めています。唯一、写真関係は米国Yahoo!系のFlickrが、いまのところGoogleのPicasaよりも優れているので、Flickrを主に使っています。少々の年会費を払うと容量制限なし! 制限無しの魅力と安心感は大きく、僕は撮った写真はiPhoto経由で良いショットも悪いショットも選別せず全部Flickrに流し込んでしまい、オフィスから自宅からも再利用できるようにしています。これも結局、全てをウェブ上で一人共有するという点では上記のカレンダーやメールと同じ発想です。インターフェースはGoogleのPicasaの方が優れているので将来的にはFlickrの優位も絶対ではない気がしますが、機能と容量あたりの価格はまだFlickrが上です。
学生たちと接していて最近数年間特に感じられることの一つに、「空気を読む」ことの偏重をあげることができる。授業やゼミで意見を求められたときに、周囲の意見分布がどうであるか「空気を読んで」すばやく同調し、そこから大きく外れない(「安全運転する」)ことが嫌われない秘訣であるという処世術が幅をきかせている。周囲と違った意見が許容されるのは、その意見が笑いをさそうものであるという厳しい条件がつく。
従って周囲を巻き込むような提案を行うことは極めてハードルの高い冒険になってしまう。というのは、十二分に「空気を読む」者でなければ何かを提案しても相手にされないどころか、ちょっと変な(と思われる)提案をすると「空気を読めない奴」という烙印を押されかねないからである。この烙印はいまの学生同士ではほぼ致命的な断罪であるらしい。
「空気」と言えば、故・山本七平氏も『空気の研究』を書いていた。山本氏によれば、空気に支配されることは近代の日本人の弱点であって、例えば(山本氏の直接知る範囲では)戦前はまだ「いやしくも男子たるものはその場の空気に支配されるのは恥であるという伝統があったのがどんどん無くなっていった。無謀な戦争・無謀な作戦などもこのために行われた例が多いというのである。「いやしくも男たるもの」は、今なら「いやしくも人ならば」に、あるいは「いやしくもリーダーを志すものであるならば」と言い換えたほうがよかろう。
「空気」は米国にももちろんある。PC=politically correctというのは、少し規模が大きいがまさに雰囲気・空気そのもののことである。911事件のあと、アメリカの外交政策を批判する者は即愛国心を疑われたため、アルカイダ掃討のためにまずアフガニスタンに、続いてアルカイダとは関係ないのだが大量破壊兵器があるらしいという口実でイラクに侵攻するというブッシュ大統領の決断にも批判は充分には起きなかった。これはそうした空気に引っ張られてのことだろう。炭疽菌騒動のような今思えば訳の分からないヒステリーのようなものに対しても、当時は正面からの批判は少なかった。公の場で一貫して批判していたのはマイケル・ムーアのような、芸人の才覚と河原乞食の覚悟のある人々のみではないか(学生たちの間で、「空気」から逸脱することが大目に見られるのは笑いを狙った時だけであるというのはこれと一脈通ずるものがある。ただし笑いをとれなかった場合の結末は学生の場合は遥かに気楽である)。想像するにマッカーシー旋風のときも似たような空気に支配されていたのではなかろうか。
「空気」に支配される日本人と「PC」に縛られる米国人の違いは、現代日本人の気にする「空気」が半径3メートル限定のものであっても支配力を持ち、米国人のその半径がいささか大きい、という気団の規模の違いかと思われる(高気圧や低気圧のような空気の塊を気象学では「気団」と総称するようだ)。気団に支配される点は日米共通なのではないか。明治期やそれ以前の日本人には、山本氏の言うようにその場の(半径3メートルの)空気に支配されるようでは「男(人間)がすたる」という恥の観念があったのだとしたら、気団の規模はもっと少なくとも車座や会議室の3メートルや10メートルではいけないという自覚があったということだろう。今の学生にそうした恥や自覚がないことは山本氏の言う通りで、さらに悪いことに学生より年上の大人にも極めて稀になってしまったように見受けられるのである。